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『魔法使いのハーブティー』前日譚  ~月に祈りを~

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『魔法使いのハーブティー』前日譚 ~月に祈りを~

Ⅰ 魔法をかけられた醜い娘の話

 わたしが代々魔法使いが住み着くこの洋館に連れてこられたのは、まだ生まれて間もない頃。幼すぎて、その頃の記憶はほとんどありません。
 唯一、はっきりと覚えているのは、満月の夜に魔法をかけられたこと。
 銀色の月明かりが落ちるハーブ畑で、魔法使いの唱える呪文が夜風に溶けながらわたしの体を包み込みました。
 その夜から、わたしは誰かに触れられると、醜く変化してしまう体になってしまいました。
 自分で言うのもなんですが、本当のわたしの姿はそこそこ魅力的だと思います。庭で佇んでいると、遠くからもわたしの姿を見つけた人々が、期待に満ちた顔をして近寄ってくるのですから。
 だけど、わたしにほんの少しでも触れたとたん、彼らは非情に驚愕し、落胆か嫌悪に満ちた目を向けて去ってしまいます。
 それほど、わたしは醜く変わってしまうのです。
 なぜ、魔法使いはこんな意地悪な魔法をかけたのでしょう?
 わたしが誰にも好かれないようにするため?
 魔法使いは、いつまでもわたしを独占したかったのでしょうか?
 呪われたこの身を、時々は悲しく思うこともありましたが、それよりは安堵の気持の方が強かったのも事実です。
 醜さは、わたしを悪い人たちから護ってくれます。
 魔法使いは優しい人で、わたしのことをいつも気にかけてくれます。
 畑には何十種類ものハーブが咲き誇り、鳥や猫たちが遊びに来るし、洋館には魔法使いの仲間たちが集い、毎日がとても賑やかで、わたしは寂しさを感じることはありませんでした。
 魔法使いとの生活に、満足していたのです。

 彼に恋するまでは。


Ⅱ 月夜を彷徨う娘の話 

 昔から迷ってばかりだった。
 筋金入りの方向音痴で、目的地にすんなりたどり着けたためしがない。
 今だって、閑散とした住宅街を彷徨う羽目になっている。
 一駅歩こうとしただけなのに、どこで道を間違えたのか。運の悪いことに、スマートフォンは電源切れ。
 道を聞こうにも二車線道路に人影はなく、コンビニなどの店もない。
 時刻は午後十時。こんな時間に個人宅のインターフォンを鳴らして道を尋ねたら、不審者だと思われるだろうか。
 タクシーが通ってくれればいいのだが、まったくそんな気配はない。
 ヒールの低い履き慣れた靴でも、一時間も休まず歩き続ければ、さすがに爪先が痛くなってくる。
 何よりも寒い。
 三月になったといっても、まだまだ空気は冬を引き摺っていて、頬を掠める風は冷たい。
 次に住宅が見えたら、不審者と思われ警察に通報されてもいいから、個人宅の玄関を叩こう。
 むしろ警察を呼んでくれれば、最寄りの駅まで警察官が送ってくれるかも知れない。
 そう決心して痛む足を庇いながら歩いて行く。
 ふと、馴染みのある植物の香りが鼻を掠め、私は足を止めた。
 えーと、これは何だっけ。なんかのスパイスの香りだ。ちょっぴり刺激的な臭いに、お腹が鳴りそうになった。
 首を横に向けると、どうやら私は大きなお庭の横をずっと歩いていたようだ。
 簡単に乗り越えられそうな柵に体重を預けるように手をかけて、片足ずつ靴を脱いで足首を回す。少し痛みが和らいだ。
 目の前に広がる植物たちが、みなどれも雑草のように地味なのは、今が冬だからだろうか。
 暗くてハッキリとは見えないが、ずいぶんといろいろな種類の植物が育てられているようだ。春が来たら、さぞかし華やかで賑やかな庭になるのだろう。
 庭の向こうに、建物のシルエットが月明かりに浮かんでいた。広い庭を持つにふさわしい洋館の姿をしていた。
 どんな人が住んでいるのだろう?
 この辺りの地主だろうか?
 明かりがついているということは、人がいるということだ。
 私は柵から手を離し、洋館に向かって道なりに進む。
 緑の香りが手を引くように、どんどん濃厚になっていく。
 ようやく門まで辿り着くと、小さな黒板の看板が見えた。

 『魔法使いのハーブカフェ
   ~おいしいハーブティーをご用意しています
    茶葉のグラム売りもしています
    ハーブについての各種相談に乗ります
                  お気軽にどうぞ~』

 看板が出ているってことは、まだ営業しているのかしら?
 私は目を凝らして黒板に顔を近づけるが、営業時間については何も書かれていなかった。だけど半分開いた門が、いらっしゃいませと言っているようで、半信半疑のまま門をくぐる。どのみち、道を尋ねるつもりなのだから、と自分に言い聞かせて。
 看板の矢印に導かれるまま、洋館を回るように左へ向かうと、ガラス張りのサンルームが見えた。落ち着いたオレンジ色の明かりが、店内をどこか幻想的に照らす。
 館の一部をカフェとして解放しているのか。
 ちょうどいい。
 足も疲れたし、喉も渇いていたところだ。客なら、きっと丁寧に道を教えてくれるに違いない。いや、タクシーを呼んでもらおう。
 これですべて解決だ。
 私はホッとしながら、カフェの扉に手をかけた。
 チリン、と澄んだベルの音が響く。
「あの、すみません」
 誰もいない店内。カウンターキッチンの奥に向かって声をかける。
 人の気配なし。
 電気はついているし、扉も閉まっていなかったんだから、営業は……しているのよね?
 不安に思いながら店内を見回す。
 魔法使いのカフェなんて店名からファンシーか、ハロウィンのようなホラーチックなおどろおどろしい内装を想像していた。だけどどちらの想像もハズレ。年季の入った木製のテーブルとイスが優しさを醸し出す、シンプルで落ちついた小さな店だった。
 カウンターの上に我が物顔で鎮座している、アンティークなレジスターが目に入る。
 うわ、なんて不用心。
「ずいぶんと年季物に見えるけど、動くのかしら」
 かつては銀であったであろう青錆びた胴体には薔薇の彫刻。蔓のように伸びるボタンの数字の掠れさえ、どこか気品漂う。
 博物館に展示されていてもおかしくないレジスターに、どうしても触れてみたくなってそっと指先を伸ばした――その時だった。
 チリン。
 澄んだベルの音に驚いて振り向けば、白いシャツを着た男性がカフェに入ってきた。三十代半ばぐらいの、垂れた目じりが優し気な雰囲気の人物だ。
「いらっしゃいませ。すみません、ちょっと畑の方に出ていたものですから」
 私は反射的にレジスターに触れていた手を引っ込める。
「あ、あのっ。珍しいレジスターだと思って」
 決してお店のお金を盗もうとしたのではない。この状況では信じてもらえないだろうが。緊張に顔が引き攣る私とは反対に、カフェの店員であろう白シャツの男性は気の抜けるようなふにゃりとした笑みを浮かべた。
「僕も詳しくは知らないのですが、このカフェの創業とともにあったそうです。でも、もう動かなくて。先々代の頃から、ただの飾りになりました。でも、雰囲気があって素敵でしょう。このカフェの守り神みたいなものです」
 彼は疑うどころか、むしろレジスターに興味を持ってくれたことが嬉しいと言わんばかりに話し出す。
「あの、カフェはまだ営業中ですか? お茶をいただけます?」
「もちろんですよ。お好きな席にどうぞ」
 私は二人用の席に座った。木製のテーブルやイスから、染みついたハーブの優しい香りが揺らめく。
 店員はカウンターキッチンの奥に引っ込み、裾の長いカフェエプロンを身につけ戻ってきた。
「ずいぶんと遅くまでやっているんですね」
 閑散とした住宅地では、こんな時間に営業しても儲かるとは思えないのに。
「住居と一緒なので、僕がいるときはいつでも開けているんです」
 ということは、この人がオーナーなのか。まだ若い、三十代そこそこで自分の店を持てるなんて。もともと垂れた目尻が笑うと更に垂れて、少し情けないようで愛らしい人好きのする笑顔になる。接客業としてはいい武器だろう。
 彼の笑顔に脱力するような安心感を覚えて、私は緊張を解く。すると忘れていた疲れが、どっと体にのし掛かってきた。
「お仕事帰りですか?」
 薄切りのレモンが入ったお水とメニューを差し出しながら尋ねる彼に、曖昧に笑ってみせる。ガラスに映った私の顔が、ちらりと視界の隅に入る。
 なんだか五歳は老けて見えて、滲み出た疲れと共に涙が零れそうになり、顔を隠すようにメニューを手にとった。
 ハーブカフェと銘打っているだけに、ラベンダーティーやミントティーなど、聞き覚えのあるハーブの名前が並んでいる。
 ラベンダーは今使っているトイレの芳香剤のイメージがあって飲む気になれない。ミントは口の中がヒリヒリしそうだ。ローズヒップは酸っぱいからあまり好きじゃない。このリンデンってなんだろう? 私はそれほどハーブティーに詳しくはない。
 他にも知らないハーブの名前が並んでいる。普通のカフェのように、ただホットコーヒーとか、オレンジジュースとか簡単に頼めるようなメニューがない。どうしよう……。
 私はここでも迷ってしまう。
 道だけじゃない。私は迷ってばかりだ。
 優柔不断な性格で、相手をイライラさせることも多い。
 時間が経てば経つほど、焦れば焦るほど、ひとつに決められなくなってしまう。
「どうぞ」
 甘い香りと共に彼の声がそばを掠め、目の前に置かれたルビー色のお茶に驚く。
「ま、まだ、何も注文してませんけど」
「初めてご来店のお客様へのサービスです。お疲れのようなので、ハイビスカスティーをご用意しました」
「ハイビスカスって、南国に咲いている花のハイビスカスですか? お茶になるの?」
「はい。花の部分を使います」
 私はメニューを置いて、代わりに透明なグラスのカップ手に取る。鮮やかな赤色のお茶がふわりと微かに甘く香る。
 そっと口づけて、予想外の酸っぱさに咳き込みそうになった。
「これっ、ローズヒップじゃないですか!?」
 美しい緋色に酸味、肌にいいと勧められて飲んだローズヒップティーそっくり。
 彼は弱ったようにふにゃりと目尻を下げる。
「ローズヒップティーには、ほとんど酸味はありません。このハイビスカスとよくブレンドされて出されるので、酸っぱいお茶というイメージが広まったんですよ。ローズヒップだけだと色もこんなに鮮やかな赤色になりません。本来は薄い赤茶色です。たぶんローズヒップの赤い実のイメージを出したいのでしょう」
「そうなんですか?」
「酸っぱいのはハイビスカスに含まれているクエン酸のせいです。梅干しにも豊富に含まれているクエン酸は疲労回復に効くんですよ。長いこと迷い歩き続けて、相当疲れていらっしゃると思って。酸味が強すぎますか? ハチミツを入れるといいですよ。持ってきますね」
 彼がカウンターへ戻っていく。
 私はガラスの中で揺れるルビー色のお茶を覗き込む。
 ローズヒップティーと思っていた色も酸味も、本当はハイビスカスのものだったなんて。うまく誤魔化されているみたい。なんかハイビスカスが可哀相。
 酸っぱいものはあまり得意じゃないけれど、疲れた体にはなぜか美味しく感じた。
 舌と喉を刺激するキュッとした酸味が、私を励まし、そして叱咤しているようだった。
 彼が持ってきてくれたハチミツを入れようかどうしようか、ここでも私はぐずぐずと悩む。
 私はいつでも迷っている。
 カップを両手で包み込み、柔らかな温かさを感じながら、ガラスに映った自分を見つめる。
 ウ・ソ・ツ・キ!
 ガラスの中の私が言った。
 手の中のカップを落としそうになる。
 舌の上に残るハイビスカスの酸味も、ガラスの中の私と一緒に私を責めているように思える。
 嘘つき、誤魔化すな、と。
 私は力なくカップをソーサーに戻した。
 うん、嘘だ。迷っていたんじゃない。家に帰りたくなくて、わざと知らない道を選んで遠回した。そしたら、本当に迷ってしまったのだ。
 赤い液体が揺れ、香りが広がる。
 眼球の奥が熱くなって、視界が揺れる。
 知っている。
 本当は知っている。
 迷っているんじゃない。迷ったフリをして、決断を引き延ばしているだけ。子どもの頃からそうだった。迷ったフリをしていたら、誰かが決めてくれる。自分で決めたのでなければ、悪い結果が出ても誰かのせいにできる。
 私は卑怯な人間だ。
 ハイビスカスの色と酸味を借りているローズヒップのように、誤魔化しているだけ。
 本当の私は優柔不断なんかじゃない。ただ、卑怯なだけだ。
 ガラスの向こうに広がる夜空に、今夜は来ない恋人の姿を思い浮かべる。
 ホワイトデーの夜に会えない恋人なんて……。
 ホワイトデーだけじゃない。バレンタインも、クリスマスも、彼の誕生日も、私はひとりぼっちだった。
 付き合って二年。ずっと違和感を感じていた。仕事で忙しいという彼の言葉を信じられたのは半年まで。
 彼の携帯電話に、子どもの画像があるのを偶然見てしまったから。
 貴方、独身じゃないの? ほかに愛している人がいるの?
 確かめた瞬間に、この不誠実な恋は終わる。
 それを知っているから、迷っているふりで自分の心を誤魔化して、いつまでも終止符を打たずにいる。
 知らなかったら罪じゃない。
 だから確かめない。
 ただ、彼の愛が本物かどうか迷っているだけ。
 それでいいの?
 不毛な恋に無駄に時間を費やしていいの?
 ガラスの中の疲れた私が、私を非難する。
 答えはわかっているんでしょう?
 本当はどうするべきかも、わかっているんでしょう?
 わかっている。
 だけど、確かめる勇気はない。
 恋を終わらせる勇気もない。
 だけど、このままでいいとも思えない。
 そうやってずっと迷って、結局答えを先延ばしにする。
 私はそんな弱い、卑怯な人間なのだ。
 酸っぱいハイビスカスティーを飲みながら、私はカフェに入った本来の目的を思い出す。
「あの、ここから最寄りの駅までは遠いですか?」
「大通りを歩くと女性の足で四十分ぐらいですね」
「四十分!」
「近道だと二十分ぐらいですけど、坂がきついし、道が暗くて、夜にはおすすめできません」
 マスターはちらりと腕時計に目をやる。
「五分後に最終バスが来ますよ。バス停は門を出てすぐ左にあります」
「五分!?」
 それでは何もオーダーせずに出て行かなければならない。
 私はバッグから財布を取り出した。
「あのじゃあ、ハイビスカスティーの料金を」
「それはサービスですからお代は結構です。それより急いだ方がいいですよ」
 私は申し訳なく思いながらも財布をしまって、急いでコートを着込む。
「本当にすみません。ごちそうさまでした」
 カフェを出て行こうとする私に、マスターが小さな包みを差し出す。
「これは?」
「タイムです。よければ家で淹れてみてください。寒い夜ですから」
 ただでハイビスカスティーを飲んで、さらにお土産までもらうわけにはいかない。私は丁寧に辞退したが、マスターはニコニコとすすめてくる。
「どうぞ、遠慮せずに。きっとあなたの力になってくれると思いますよ」
 あまり頑なに断るのも失礼かと、私は恐縮しながらお礼を言って受け取る。
「勇気という名前を持つハーブです」
 マスターがふにゃっと微笑んだ。

「勇気……」
 私はバスの中で、小さな包みに鼻を近づける。
 ほろ苦くどこか力強さを感じる香り。
 私を励まし、鼓舞するような香り。
 バスの窓に映る私が、どこか勇ましく見える。
 そうだ。今のままではいけない。
 迷ったフリをして、そのうち本当に迷ってしまう前に、決断しなければ。
 そう思った瞬間、なぜかマスターの得意げな笑顔が浮かんだ。
 最初のハイビスカスティー、お土産のタイム。
 まるで私の心を読んで、ハーブティーを通して会話をしていたみたいだ。
「あれ? そういえば……」
 マスターがハイビスカスティーを出してくれたのは、私が迷って長い時間歩き続けて疲れたからって言っていた。けれど、私、迷ってずっと歩いていたなんて、話したっけ?
 まさか、心を読まれた……?
 店名を思い出す。
『魔法使いのハーブカフェ』
 魔法使い?
 まさかね。
 私は小さく笑って、タイムをそっとバッグにしまった。


Ⅲ 恋をした醜い娘と魔法使いの話

 満月が近くなると、魔法使いはハーブ畑の真ん中で、空を見上げ月に祈る。
 ――どうかこの畑と屋敷を愛してくれる誰かが来てくれますように。
 彼は何代目の魔法使いか、もう数えるのも面倒で覚えていない。
 かつての賑わいをなくした屋敷に、今は彼ただ独り。
 醜いわたしに、何度も会いに来てくれた垂れ目の彼は、いつしか魔法使いの弟子になり、やがて屋敷の主人となっていた。
 久しぶりに館にやって来た女性は、ずっと待ち続けていた誰かではなかったようだ。
 彼は少しがっかりした様子で畑にやって来た。
 そして、月に祈る。
 月を仰ぐ魔法使いに倣って、わたしも一緒に月に祈った。
 かつての賑わいをなくし、寂しくなったこの洋館に、わたしたちを愛してくれる誰かがやって来ますように。

 冬が過ぎても、春が過ぎても、洋館は寂しいままだった。

 ところが夏が訪れた頃、わたしたちの祈りが通じたのか、運命の彼がやって来たのだ。

 ある夜、彼は泣きながらこの洋館にやって来た。
 彼に何があったのか、わたしは知らない。
 彼は背が高くて、とても見目麗しくて、動くたびに柔らかな栗色の髪が跳ねた。
 わたしだけでなく、女性ならみな彼から目を離せなくなる。そんな姿をしていた。
 わたしは彼に触れられるのが恐かった。触れられれば、きっと嫌われてしまう。
 だからいつも彼の視界に入らないよう神様に祈っていた。彼に気づかれませんように。
 だけどそれは無理な話。
 同じ洋館で暮らしているのだから。
 ある晴れた日、寝ぼすけの彼が目を擦りながらわたしのそばにやってきた。そして、ゆっくりとわたしに向かって腕を伸ばす。
 わたしは緊張して震えた。
「大丈夫、俺。ちゃんと知っているから」
 彼はすごく魅力的に微笑むと、そっとわたしに触れた。
 そしてわたしの醜い姿を見ても、態度を変えなかった。
 彼に対する気持が憧れではなく、恋慕になった瞬間だった。

 ああ、きっと彼だ。魔法使いがずっと月に祈り続けていた誰かは彼のことだ。
 そうであって欲しい。
 どうかそうであって。

 だけど彼は来たときと同じように、ある夜に突然屋敷を出て行ってしまった。
 二階の窓から飛び降りて、そのまま館を去っていってしまった。
 わたしの恋は終わってしまったのだ。
 どうして彼は出て行ってしまったのだろう?
 やっぱりわたしの醜さが嫌だったのだろうか?
 わたしは初めて普通の娘でいたかったと嘆き、自分に魔法をかけた魔法使いを恨んだ。

 ――ねえ、魔法使いはどうして、こんな意地悪な魔法をかけたのかしら?
 わたしが尋ねると、魔法使いは優しい微笑みを浮かべる。彼の笑顔は、目尻がふにゃっと垂れて、とても愛らしい。
「おかげで僕を助けてくれた。ありがとう」
 彼はわたしに魔法をかけた魔法使いとは違って、相手の心が読めるようだ。
 時々だけど、わたしの気持に応えてくれる。
 だけど、わたしの疑問には答えてくれない。


 そういえば、彼もわたしの醜さを知ってもなお、何度も会いに来てくれたのだった。
 ――栗色の髪の彼は、なぜ出て行ってしまったの? もう会えないの?
「彼にも思うところがあったのだろう。だけど、彼はまた来てくれるよ。そんな予感がする」
 ――本当?
 疑わしそうな目を向けると、彼は困り顔で誤魔化すように笑って見せる。
 まだ若くて未熟な彼は、この洋館で暮らしていた歴代の魔法使いたちと違って、占術や先読みが苦手だ。
 まだ拗ねているわたしに、彼がそっと手を伸ばしてきた。
 見事に熟した、わたしの美しい果実をそっともぐ。
 彼は手の中の黄金の実をうっとりと見つめた。
 綺麗でしょう? でも、あなたの手に触れられたとたん、見た目からは予想もできない酸っぱくて苦い味がするのよ。
 もしも、美味しい果実を彼に与えてあげられたら、彼はわたしを好きになってくれたかしら?
 どうか、わたしにかけられた魔法を解いてちょうだい。
 彼は哀しそうに首をふる。
 知っている。彼はわたしを元に戻すため、いろいろと試行錯誤をくり返していたが、結局すべて無駄に終わったのだ。
 彼にはわたしにかかっている魔法を解くことは出来ない。
 こんなわたしだけど、目の前にいる未熟な魔法使いは愛してくれる。そうだ。歴代の魔法使いも、なぜかわたしを愛してくれた。
 わたしの醜さには、なにか大きな役割があるの?
 ――月に祈りは届くかしら? もう一度、彼に会えるかしら?
「うん。きっと」
 彼は月を見上げる。
「彼だけじゃない。僕たちが待っている誰かは、きっとやって来る」
 時と共に訪問者が減り、かつての賑わいの面影もなくなった洋館の畑で、私たちは月に祈る。

 どうかこの畑と屋敷を愛してくれる誰かが来てくれますように。

                    END


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 ほかにも、助けが必要な人、悩める人を救う物語を書いています。よろしければこちらもぜひ。

『お隣さんは小さな魔法使い』
 魔法使いのハーブティーと世界がリンクしている物語。こちらは魔法使い見習いの十歳の女の子が助けを求める人を魔法で救います。
 もしも、あなたが困っていて、助けを必要としているのなら、窓や玄関、門など目立つところに銀色のリボンを結んでおくといい。優しい魔法使いが助けてくれるかもしれないから―。

『アルケミストの不思議な家』

 魔法使いではなく、変人錬金術師(アルケミスト)が少女を救う物語。
 キミの心には黄金がある。
 焦ることはない。錬金術とは手間と時間がかかるものだのだから。ゆっくり、じっくりと自身の心と体を錬金していくがいい。黄金は一日にしてならず、だ。天才アルケミストが言うのだから間違いない。


『迷える羊たちの森 ~フィトセラピー花宮の不思議なカルテ~』

 植物療法士(フィトセラピスト)が迷える羊たち、悩める人々を導く。
 夕焼けは羊飼いの喜び、朝焼けは羊飼いの憂鬱。
 夕焼けを背に立つ花宮の髪が、微かな風に揺れる。逆光の彼の姿が、黒い曼珠沙華に見えた。
 とても神秘的で不気味に見えた。



  

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